そこには思いもよらぬことが書いてありました。
葉隠聞書 第一の二「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」
びっくりしました。死ぬことは、悪いことではないのでしょうか? しかもそれが犬死であっても!?

〔ふりがな〕
そこには おもいも よらぬことが かいてありました。
びっくりしました。しぬことは、わるいことではないのでしょうか? しかもそれがいぬじにであっても!?



〔筆者注〕
葉隠入門 P.178より引用 意訳(葉隠入門の笠原伸夫氏と原本現代訳の松永義弘氏の訳を参考に、筆者が意訳したもの)
 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。 別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。 二つ二つの場にて、図に当たることのわかることは、及ばざることなり。 我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。 この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。 恥にはならず。これが武道に丈夫なり。 毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度無く、家職を仕果すべきなり。  武士道は、死ぬことだと見つけた。生死の選択の場で、早く死ぬ方を選ぶというだけのことだ。何も難しいことはない。 腹を据えて進むだけだ。
 思い通りの結果にならなければ犬死などというのは、上方風の思い上がった武士道だ。 生か死かという選択の場で、思い通りの結果が得られるかどうかなど分かるはずもない。 人は、生きる方が好きなもの。きっと好きな方に理屈を付けることだろう。 もし思い通りの結果にならずに生き残ってしまったら、腰抜けとなる。ここの境が危ないのだ。 もし思い通りの結果が得られず死んだならば、それは犬死の気違いとなる。しかしそれは恥ではない。
 この境を知ることで、武士道をしっかりとしたものに出来る。 毎朝毎夕、死の覚悟を新たにし、常に死身になっている時は、武士道で自由の境地を得て、一生あやまちなく、職務をまっとうすることが出来るだろう。
〔ふりがな〕
 ぶしどう というは、しぬことと みつけたり。ふたつふたつのばにて、はやく しぬほうに かたづくばかりなり。 べつに しさいなし。むねすわって すすむなり。ずに あたらぬは いぬじになどということは、かみがたふうの うちあがりたる ぶどう なるべし。 ふたつふたつのばにて、ずに あたることの わかることは、およばざることなり。 われひと、いくるほうが すきなり。たぶん すきのほうに りが つくべし。もし ずに はずれて いきたらば、こしぬけなり。 この さかい あやうきなり。ずに はずれて しにたらば、いぬじに きちがいなり。 はじには ならず。これがぶどうに じょうぶなり。 まいあさまいゆう、あらためては しに あらためては しに、じょうじゅうしにみになりて いるときは、ぶどうに じゆうを え、いっしょう おちどなく、かしょくを しはたすべきなり。
〔ふりがな〕
 ぶしどうは、しぬことだと みつけた。せいしの せんたくの ばで、はやく しぬ ほうを えらぶというだけのことだ。なにも むずかしいことはない。はらを すえて すすむだけだ。
 おもいどおりの けっかにならなければ いぬじになどというのは、かみがたふうの おもいあがった ぶしどうだ。 せいか しかという せんたくの ばで、おもいどおりの けっかが えられるかどうかなど わかるはずもない。 ひとは、いきるほうが すきなもの。きっと すきなほうに りくつを つけることだろう。 もし おもいどおりの けっかにならずに いきのこってしまったら、こしぬけとなる。ここの さかいが あぶないのだ。 もしおもいどおりの けっかが えられず しんだならば、それは いぬじにの きちがいとなる。しかしそれは はじではない。
 このさかいを しることで、ぶしどうを しっかりとしたものに できる。 まいあさまいゆう、しの かくごを あらたにし、つねに しにみになっているときは、ぶしどうで じゆうの きょうちを えて、いっしょう あやまちなく、しょくむを まっとうすることが できるだろう。

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